共事者として【スタッフ・こげら日記】
2024-12-09
仕事柄、障がい当事者と接する機会は多い方ですが、
当事者のことがわかると思ったことは一度もありません。
自分以外のことは理解できず想像するしかない、と言えばそれまでの話です。
その意味では、ぼくにとって利用者も同僚もパートナーも子どもも、
すべて他人事にすぎません。
ですが一方で、ぼくたちは完全に他人であることもできない。
目の前で困っている人がいたら、手を差し伸べて「しまう」。
第一そんな突き放し方は寂しすぎる。
ぼくの義兄には発達障害と難病があります。
パートナーとの結婚を境に、たまたま障がい当事者に近い立場になりました。
それでも、主たる介護者は義母です。
自分が当事者かと言われるとしっくりこない。
もしかしたら、義母も同じように思っているかもしれません。
結局のところ一番困っているのは本人なのですから。
そのような自分の立場の定まらなさ、気持ち悪さを抱えながら、
ぼくはこれまで様々な当事者に接してきたように思います。
そんなとき、地域活動家の小松理虔の著した『新復興論』という本のなかで
「共事者」という便利な言葉に出会いました。
「共事者」とは、当事者と「共に事に当たる人」です。
震災や原発事故の当事者ではない周辺の人たちが、
どのように当事者と非当事者の垣根を乗り越えていけば良いのか。
その足掛かりとなる新しい概念として、同書のなかで取り上げられています。
何かの当事者を名乗ることには、いつも抵抗があります。
それに、なりたくてなるわけでもない、という場合がほとんどでしょう。
そうではなく、共事者として、
いつも当事者の味方で在れたらと思います。
(climber)